青銅の輪 2

 博雅は自邸の前で一瞬たじろぎ、正門ではない場所から中の様子を伺うようにして自邸へと入っていった。心の片隅で何故主なのにこのような真似をしなければならないのだろうか・・・・何も悪い事はしていないのに。と思いつつ。

 月明かりを頼りに自室へと身体を向けたその時、博雅の背に半ばあきれたような声が掛けられる。その、全てはお見通しだと言わんばかりの声の主は、ゆっくりと主の前に回りこみながら言葉を続ける。彼とて咎めている訳ではないのだが、濡れそぼっているだけではなく衣の片袖もなくしているとなれば、いくら主といえど嫌味の1つも言いたくもなるであろう。何故ならばこれが初めてではないからだ。

「・・・・・・博雅様。一体今度は何をお拾いになったのですか?情が移るから動物は駄目だと以前も申し上げたば・・・・・・!?殿!お怪我は!?」

 完全に前に回りこむよりも先に、その者の目に博雅の脇の布地を濡らしている血の滲みが入る。

「大事無い。実頼さねより、悪いが柚木虫ゆきむしを呼んではくれまいか?この者の手当てをする。」

 すっかりと血の気を失った腕の中の時行を実頼に見せる。一見血は止まったように見えるが、応急処置として患部に巻いた博雅の片袖は最早文様を見ることは叶わず、血で染まりきっていた。

 困惑の表情を浮かべた実頼は、博雅が指名した女房・柚木虫を呼ぶ為に身を翻すと同時に固まった。当の柚木虫が薬箱を手にそこに居たからだ。そして彼女は実頼に微かに微笑む。それから己が主の方に向き直ると、博雅を誘導するように先に立って歩き出す。実頼は手当ての為に入った場所を記憶すると、ぬるま湯や灯りを用意する為、反対方向へと走り出していった。



 実頼が要りようと思しき物を幾度かに分けて柚木虫の元に運び終えた後、博雅が着替える事も忘れまだ傍に居た事に我慢ならず、少し苛立ちを含んだ声で言った。

「殿。いい加減にお召し替え下さい。」

 それでも動こうとしない博雅に対して、今度は柚木虫が言った。

「私を信用して下さるのでしたら、どうか実頼様のお言葉に従って下さいませ。」

 小さな声ではあるが、凛としたその声に博雅は素直に従う。そして実頼に連れられて自室へと入っていった。そして今更ながら己のひどい格好に気がつき、水を吸った衣を脱ぎ捨ててゆく。実頼はそれに対してさして気に止めた様子もなく、新しい衣を用意して博雅に着付けてゆく。勿論もれなくお小言つきだ。博雅は聞いてはいるが曖昧な返答を繰り返すだけで、落ち着きがなかった。

「どこぞの者とも知らぬ者を手当てして、一体何をなさるというのです?」

 咎めるような言い方に、あーうーと声を洩らしながら言葉を探す博雅。何も考えずに行動した結果だという事を悟った実頼は、胸中で溜息をついた。それと同時に殿らしいとも思った。が、そこで甘い顔をしては駄目だと自分を戒めた。

「確かに彼の出自は知らない。だが、先日深谷みや寺で会った者である事。重信の知り合いである事。保憲殿のご友人である事。これだけは断言出来る。」

 静かにゆっくりと言葉を吐き出す博雅。それは屈んで着付けをしていた実頼の手を止めさせた。そして、主従の間に視線を交わすきっかけとしては充分な言葉だった。実際の時間にしては短い視線の交信の中で、言葉にならない言葉が交わされ、結論が出された。

「保憲殿とは、賀茂家のご子息でしたね。後程手紙を出します。従ってかの者の名をお教え下さい。」

 この御方には叶わない。これでこそ、良くも悪くも殿なのだ。と、その念だけが実頼の心を満たしたのだった。

「名は橘蒼実時行たちばなあおざねのときゆき殿だ。尤も重信は二十三夜ふみやす殿と呼んでいるが。」

 漢字を問う事もなく、実頼ははいと頷く。それからてきぱきとしとねの準備をすると、もうお休み下さいと二度三度念を押して博雅の部屋を後にした。

 始め博雅は冷たいふすまの中でそわそわしていたが、濡れて体力を消耗していたのと精神的な疲れとで、衾の中で次第に体温が馴染んでゆくにつれ、すっかり寝入ってしまった。そしていつもの起床時刻まで白河夜船となった。  

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